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東京地方裁判所 平成4年(ワ)5434号 判決

原告

串畑敏子

串畑潔

串畑裕子

石山佳子

右四名訴訟代理人弁護士

澤藤統一郎

被告

右代表者法務大臣

前田勲男

右指定代理人

開山憲一

外一二名

主文

一  被告は、原告串畑敏子に対し、金一六五七万三四二〇円、原告串畑潔、同串畑裕子及び同石山佳子に対しそれぞれ金五五二万四四七三円並びに右各金員に対する平成二年七月二八日から支払済みまでいずれも年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を、いずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、それぞれを各自の負担とする。

四  この判決の第一項は、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告串畑敏子に対し三三〇〇万円、原告串畑潔、同石山佳子及び同串畑裕子に対しそれぞれ一一〇〇万円並びに右各金員に対する平成二年七月二八日から各支払済みまでいずれも年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、串畑平が、被告の設置・運営にかかる東京大学医科学研究所附属病院において、肝細胞癌の治療のため肝動脈塞栓法(TAE)及び肝動脈内抗癌剤注入法(TAI)の併用術を受けたが、その際、担当医師が塞栓剤及び抗癌剤の注入位置を誤ったため、右抗癌剤等が胃へ流入して胃壁を侵襲し、大量出血を惹起して死亡したなどとして、遺族が債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償の一部及びこれに対する右死亡の翌日である平成二年七月二八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

一  争いのない事実等(特記しない限り当事者間に争いがない。)

1  被告は、東京大学医科学研究所附属病院(医科「被告病院」という。)を設置し、これを運営している。原告串畑敏子は、平成二年七月二七日に、被告病院に入院中に死亡した串畑平(以下「平」という。)の妻であり、原告串畑潔、同石山佳子及び同串畑裕子は、それぞれ平の子である(甲二の1、2)。

なお平は、昭和七年八月二九日に出生し、平成二年七月二七日の死亡時においては、全国食品産業労働組合同盟の専従職員(副委員長)として稼働していた(甲二の1、原告串畑敏子本人)。

2  平は、平成元年一二月ころ、東京都立駒込病院における腹部エコーの実施により、肝左葉後内側区域(S4)と同外側区域(S2)の部位に二個の腫瘍の存在が認められ、平成二年二月一五日の肝生検により、右腫瘍が肝細胞癌であることが確認されたため、同年三月二日、右駒込病院の紹介で、被告病院に入院した(なお、S2ないしS4とは、肝臓内部の位置特定のため、講学上設定された肝区域の名称である。以下、肝左葉後内側区域の腫瘍を「S4の腫瘍」、同外側区域の腫瘍を「S2の腫瘍」という。)。

被告病院入院時の平の癌は、S4に径二〇mm大の、S2に径一〇mm大の肝細胞癌であった。他に、肝硬変及び結核性胸膜炎に罹患していた。

3  被告病院(担当医師吉崎厳医師・以下「吉崎医師」という。)は、平に対し、右各肝細胞癌の治療のため、同月一六日肝動脈内抗癌剤注入法(Tran scatheter Arterial Infusion以下略して「TAI」という。)を実施してTHPアドリアシン三〇mg(抗癌剤)、シスプラチン二〇mg(抗癌剤)及びリピオドール七ml(造影剤及び塞栓物質)を注入し(右の事実のうちシスプラチンの注入量について乙二五、証人吉崎)、更に同年四月六日肝動脈塞栓法(Transcatheter Arterial Emboliza‐tion以下略して「TAE」という。)を実施してアドリアシン(テラルビシン)一〇mg(抗癌剤)、オキサロプラチン五〇mg(抗癌剤)、リピオドール五ml及びゼルフォーム(塞栓物質)を、固有肝動脈(PHA)からS4の腫瘍に対し約七〇パーセント、S2の腫瘍に対して残り三〇パーセントそれぞれ注入した。右TAEの術中に、平には嘔気と血圧低下が認められた。

4  右TAEないしTAIは、肝癌の細胞がその栄養を依存している肝動脈に塞栓物質ないし抗癌剤を注入して、特定部位の癌細胞を壊死させる治療法である。具体的手技の方法は、セルディンガー法により、経皮的に大腿動脈からカテーテルを挿入した上、経上腸間脈性門脈造影、選択的肝動脈造影を施行し、門脈内腫瘍浸潤の程度、腫瘍の部位・大きさ、腫瘍栄養動脈、肝内転移の有無等を確認した後、目的とする腫瘍の支配動脈にカテーテルを挿入して、塞栓物質ないし抗癌剤を注入するものである。

5  平は、同年五月九日被告病院を退院して通院による検診を受けていたが、同年六月二二日、同病院に再度入院した。

被告病院は、平に対し、同年七月五日にTAE及びTAIの併用術を施行し(担当は吉崎医師及び菅田文彦医師・以下「菅田医師」という。)、その際、S2の腫瘍に対し、リピオドール五ml、マイトマイシン一〇mg(抗癌剤)及びテラルビシン二〇mgの各三分の一並びにオキサロプラチン五〇mgの五分の二及びゼルフォームパウダー若干量をそれぞれ注入し、S4の腫瘍に対しては、固有肝動脈(PHA)より、リピオドール五ml、マイトマイシン一〇mg及びテラルビシン二〇mgの各三分の二並びにオキサロプラチン五〇mgの五分の三及びゼルフォームパウダー若干量をそれぞれ注入した(以下右併用術について「本件TAE」という。)。右術中において、平には胆汁様のものの嘔吐と心窩部痛が認められた。

6  肝動脈においては、腹腔動脈から分枝した総肝動脈(CHA)が、右胃動脈と胃十二指腸動脈を分枝して固有肝動脈(PHA)となり、これが左肝動脈(LHA)と右肝動脈(RHA)とに分枝して肝臓の各部に至るというように、固有肝動脈から肝臓の全体に動脈血が供給されるタイプを正常走行といい、その個体は、統計上五五パーセントである。平においては、これと異なり左胃動脈(LGA)から分枝した左肝動脈(LHA)が、S2の領域に繋がっているタイプで、これを破格走行(Variation)といい、その固体は、統計上一〇パーセントである。吉崎医師は、本件TAE施行の際には、平の右破格走行を認識していた。

7  平には、本件TAE後である同月九日から便潜血が認められ、上部消化管からの出血が疑われたところ、被告病院は、同月一一日、平に対する内視鏡検査により、胃噴門部直下の前壁から食道と胃の接合部(EC‐junction)に及ぶ潰瘍及び胃内の凝血を認めた(以下この部分の潰瘍を「①の潰瘍」という。)。

8  平は、同月一二日に吐血し最大血圧が七〇mm/Hgまで低下したため、被告病院は胃洗浄を施行するとともに、血圧安定後に内視鏡検査を実施したところ、胃体部は胃角部より穹窿部下部まで凝血で一杯のため観察できなかったので、止血するまでの間輸血を開始(八〇〇ml)する一方、更に二回にわたり胃洗浄を実施した(乙四)。

9  平は、同月一五日ころより意識状態が低下して翌一六日には意識混迷状態、DIC(汎発性血管内凝固症候群)となったため、同月二〇日、急性肝不全、急性腎不全、胃潰瘍、広汎性血管内凝固及び肺炎により、被告病院人工臓器移植診療科に転科し、同月二一日、同科において気管切開を試みる(乙五)などした。しかし、同月二四日に再び胃出血を生じたため、同月二五日に緊急に内視鏡検査を施行した(乙五)ところ、EC‐junction部直下、小彎側に浅い潰瘍を認めた。止血を試みるも効果がないまま同月二六日には多臓器不全の状態となり、同月二七日午前六時一五分に死亡した。

10  同日、若林とも医師(以下「若林医師」という。)の執刀により平の遺体の病理解剖を実施したところ、平の主要病変は、①肝硬変に発生した肝細胞癌塞栓後状態、②膵頭部壊死、③全身の出血傾向、④血性汚濁腹水(腹膜炎)、⑤全身の黄疸であった。また胃の潰瘍については、胃体上部前壁の穿通性の潰瘍(以下「②の潰瘍」という。)と胃体部小彎の前後壁に及ぶ潰瘍(以下「③の潰瘍」という。)が発見された。

二  原告らの主張

1  被告は、平の入院時点において、同人と準委任契約としての診療契約を締結し、患者の危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務をもって、現代医学の到達水準における誠実診療をなすべき債務を負うに至ったものであるが、本件における被告病院の治療には、以下の点で、胃方向への抗癌剤、塞栓剤の流出を防止する注意義務を怠った過失がある。

なお、被告病院は専門医の研究機関であって人的物的な医療設備と研究の機会に恵まれ、最先端の医学情報収集に最も便宜な立場にあるのであるから、被告病院医師らの注意義務の程度は一般病院の水準を凌駕する最高度のものというべきである。

(一) 吉崎医師は、七月五日にS2の腫瘍に対するTAEを実施する際、左肝動脈は左胃動脈から分枝する破格であることを認識していたのに、左肝動脈分枝以前の左胃動脈の部位に抗癌剤・塞栓剤をカテーテル注入した。

右の部位への抗癌剤・塞栓剤の注入は、当然に胃への逸流を生じ、二重血管支配を受けない胃壁への重篤な侵襲は不可避であることが明らかであり、また、TAE実施の際は、塞栓と抗癌剤の効果を患部癌細胞に局限し、一方他の正常組織への侵襲を可及的に防止するため、S2の腫瘍へのカテーテルの挿入位置は、左胃動脈ではなく、左胃動脈から分枝後の肝動脈枝であるべきである。

仮に、医師の技術レベル等の理由で、カテーテルを分枝後の左肝動脈に挿入することが不可能であったのであれば、右分枝前の地点からの注入は、当然に胃への薬剤の逸流を惹起するのであるから、TAEの施行自体を控えるか、バルーンカテーテルないし血管収縮剤を用いて、これを防止すべきであるのに、これをしなかった過失がある。

(二) TAEの合併症としての消化管病変については、一九八三年ころから専門誌において繰り返し報告されており、その発生頻度は報告によっては、七三パーセントに及ぶとされ、その発生原因としては、最近では塞栓物質の胃支配動脈への逆流ないし使用する抗癌剤の胃粘膜への直接障害が指摘されているところである。

(三) マイトマイシンCは毒薬(動物実験における致死確率が五〇パーセントとなる薬剤投与量による。ハツカネズミ皮下注射による右の値が二〇〇mg以下を劇薬、二〇mg以下を毒薬と指定される。)、テラルビシンは、劇薬の指定を受けているにも関わらず、本件TAEにおいては、右各抗癌剤を通常の倍の量使用した。

(四) 仮に、カテーテルの挿入位置が、左胃動脈から胃への分枝を越えた地点であったとしても、慎重さを欠いて胃への薬剤の逆流を招いた過失がある。

2  本件TAEの施行と平の死亡との因果関係について

平の死亡は、本件TAEの際に注入された抗癌剤ないし塞栓物質が、左胃動脈から胃壁に到達しこれを侵襲して胃から大量出血を生じさせ、更に右出血による出血性ショックが肝の虚血症状をもたらして急性肝不全の原因となるとともに、DIC(広汎性血管内凝固症候群)を合併し腎不全等の多臓器不全を生じさせたことによるものである。

病理解剖の結果、術後三週間を経てなお平の胃から塞栓物質が検出され、かつ右塞栓物質は、①ないし③の潰瘍の部位に存在したこと、また抗癌剤についても、塞栓物質と同様に存在したものといえること、病理解剖担当の若林医師は、平の胃壁の侵襲の原因として、食道動脈瘤の破裂を否定していること、七月九日の時点で、主治医は平のカルテに、TAEで胃が障害された旨を記載していること、文献によっては、術後直後または間もなく、ではなく五日ないし六日を経過した後の消化管病変発生に触れているものがあることなどから、本件TAEの施行と平の死亡との間に相当因果関係のあることは明らかである。

3  原告らの損害

(一) 逸失利益

平は、死亡当時五七歳であり、年収約八〇〇万円を得ていたのであって、六七歳までの一〇年間稼働が可能であるとして逸失利益を算出すると、四四四九万円が相当である。

(二) 慰謝料

一家の支柱であった平の死亡による精神的損害を金銭に換算すれば、三〇〇〇万円を下らない。

(三) 原告らは、本件提訴に当たり澤藤統一郎弁護士と訴訟委任契約を締結し、勝訴の際には弁護士会報酬規定にしたがった着手金・成功報酬を支払う旨約した。右のうち認容額の一〇パーセントが本件医療過誤と相当因果関係を有する損害である。

(四) 原告らは、(一)及び(二)の損害をそれぞれ法定相続分に応じて相続したので、原告串畑敏子は被告に対し三七二四万五〇〇〇円、その余の原告らは被告に対し一二四一万五〇〇〇円の損害賠償請求権を取得した。本件においては、右損害賠償請求権のうち、原告串畑敏子は三〇〇〇万円の、その余の原告らは一〇〇〇万円の請求をし、更に右額の各一〇パーセントを弁護士費用としてそれぞれ加算して請求するものである。

三  被告の主張

1  被告の過失について

本件TAEの施行については、被告には以下のとおり過失は存しない。なお、被告の注意義務の程度について原告らは、最高度のものが要求されるというが、被告病院では研究プロジェクト以外の領域の患者であっても診療を行っており、研究機関であるが故に全ての領域において直ちに一般病院の水準を凌駕する最高度の注意義務を負うものではない。

(一)(1) 平は、被告病院転院時から肝の予備能が著しく低下しており、しかもS4領域の腫瘍のほかにS2領域にも娘結節が存在していて、潜在的に肝全体に腫瘍転移の可能性があったので、外科手術に適応せず、かつTAE適応症例であったことから最善の方法としてTAE療法を選択したものであって、右治療法の選択は適切であった。

(2) 本件TAEは、吉崎医師がカテーテル操作を担当し、菅田医師がこれを補助したものであるところ、吉崎医師は、当時TAE及びTAIの施術経験一一四例を有しており、熟練度において問題はなかった。

(3) 本件TAEにおいて、S2の腫瘍に対するカテーテル(5.0Frの口径)の先端の到達位置は、左胃動脈(LGA)の胃への分枝を越えて左肝動脈(LHA)を形成している地点である。

右のとおり分枝部を超えた位置で薬剤を注入した場合であっても、胃に通じる血管に薬剤が流入する可能性はあったものである。すなわち、TAEにおいては、X線画像を見ながら逆流のないことを確認しつつゆっくりと薬剤を注入していくのであるが、X線画像による肉視観察には限界があるため、X線画像に映らない微量の薬剤の逆流を完全に防止することは不可能である。

(4) 逆流防止措置については、可及的に左肝動脈(LHA)内にカテーテルを挿入した上、まず造影剤のみを注入して血流の状態を確認し、次いで薬剤と造影剤とを混和し、X線透視下で、注入速度・圧力を手動で調整し、逆流のないことを確認しながらゆっくりと注入した。

(5) 胃壁擁護措置については、潰瘍防止剤及び粘膜保護剤としてH2ブロッカーを使用しており、問題はない。

(6) 血管収縮剤ないしバルーンカテーテルの使用については、本件TAEにおいては左胃動脈(LGA)の分枝を超えた左肝動脈(LHA)内に到達しており、血管収縮剤ないしバルーンカテーテル使用の適応例ではない上、右カテーテルは、7.0ないし7.5Frと太く、左胃動脈(LGA)上行枝に挿入することは血管が細いため難しいのであって、仮に挿入し得たとしても、血管損傷の可能性が大きい。また、これを使用したとしても、逆流を完全に防止できない。

(二) 本件TAEの際に使用した薬剤の量については、文献等にはマイトマイシンについては一〇から二〇mg、アドリアシンについては二〇から四〇mg(多い場合は六〇mg)注入するものとされており、本件TAEの際にも右に従って通常の量を使用している。

(三) TAEの合併症としての消化管病変の発生頻度は高率でなく、しかもTAE及びTAI施行後の潰瘍の形態的特徴は、不規則な辺縁を示す白苔、その周囲に発赤・浮腫が強く、浅いものが多い上、三か月以内に瘤痕化し、難治性は少ないとされており、文献によっては、大量出血・穿孔といった重篤な合併症はないとされているのであって、本件のごとき重篤な胃病変の発生は全く予測し得ないところである。

2  本件TAEと平の死亡との因果関係について

以下の理由により、本件TAEの施行と、平の死因である広範な胃潰瘍の発生及び大量の出血との間には条件関係ないし相当因果関係がない。

(一) TAE施行に伴う胃の潰瘍の発生頻度は、それほど高くない。原告らは、消化管病変の発生頻度は七三パーセントにも及ぶと主張するが、他の複数の文献によれば、消化管病変のうち胃潰瘍等の胃十二指腸病変の発生頻度は3.2ないし約27パーセント程度とされている。

(二) 前記のとおり、TAE及びTAI施行後の潰瘍の形態的特徴は、不規則な辺縁を示す白苔、その周囲に発赤・浮腫が強く、浅いものが多い上、三か月以内に瘤痕化し、難治性は少ないとされており、文献によっては、大量出血・穿孔といった重篤な合併症はないとされ、まして死亡例の報告もない。

(三) 本件TAEの使用薬剤は、潰瘍を起こしやすい薬剤ではなく、殊に塞栓剤であるリピオドール及びゼルフォームパウダーは永久塞栓物質ではなく、またこれらは現在一般に用いられている塞栓剤中最も刺激の少ないものである。

(四) 胃壁に至る動脈枝は、左胃動脈(LGA)以外の動脈とも吻合(血管相互の交通のこと。)しており、したがって複数の血管支配を受けていること、また、平の場合、左胃動脈の分枝からの血流量は、左肝動脈のそれに比して、明らかに少量であることから、仮に多少薬剤が胃への分枝に流入したとしても、潰瘍が生じるものではない。

(五) 平の胃の潰瘍部分と、左胃動脈の支配領域及び塞栓物質の分布状況は必ずしも一致していない。また、①ないし③の各潰瘍のうち、②及び③の潰瘍については、内視鏡検査ではいずれも確認されていないのであって、病態悪化後、二次的に発生した可能性がある上、両者とも出血源であった可能性は小さく(文献上、③のようなびらん状の潰瘍については大出血の例はないとされている。)、他方①の潰瘍については、当該部位はむしろ食道動脈の支配を受けていると解され、この部分には塞栓物質も認められないことから、抗癌剤等の逆流が右潰瘍形成の原因であるとは考えがたく、また右潰瘍については動脈の破綻も認められないことから、出血の原因としてはむしろ食道静脈の破綻の可能性が高い。

(六) 平の胃からは、術後三週間を経て塞栓物質が検出されているが、永久塞栓物質ではなくとも、消化器官に吸収される速度は当該患者の消化器管の状態により影響されるし、また左胃動脈への分枝を超えた地点から薬剤を注入したとしても、薬剤が胃に通じる血管に逆流することは不可避であるから、胃に塞栓物質らしきものが発見されたからといって不思議ではないし、これが胃を侵襲したものとは直ちにはいえない。

(七) 七月五日のTAE施行後の平の状態は、四月六日のTAE施行後の平の状態と殆ど変わりがなかった。術中に嘔気、嘔吐、心窩部痛及び発熱の症状はみられたが、これらはTAEに通常伴う一般的症状である。また仮にTAEによって、潰瘍及び出血が生じるとすれば、術直後ないし術後間もない時期でなければならないが、平は、術後、食事は全量摂取し、ロビーで休息していることもあり、潰瘍及び出血を窺わせる所見は見られなかった。平に消化管からの出血を窺わせる所見があったのは、術後四、五日経過した七月九日になってからである。

(八) 一般に、肝細胞癌は肝硬変を合併する頻度が高く、その場合には、胃などの消化管の潰瘍、びらんを生ずる割合が高い上、TAEを施行した場合、肝予備能の低下やTAEの疼痛などのストレスにより、胃潰瘍またはびらん等の胃病変発生率が高まるといわれている。

したがってむしろ、平の潰瘍形成及び出血の原因は、七月九日ころに右のごときストレスが加わったことにより、まず①及びEC-junctionに潰瘍が発生し、次いで①の潰瘍部分の食道静脈の破綻による出血を生じ、それにより更にストレスが昂じて②及び③の潰瘍を誘発し、③の潰瘍部分の動脈に破綻を生じたが、肝機能の低下及び全身の衰弱傾向もあって止血に至らないまま、予て①の潰瘍からの出血もあって大量出血を招来したものと考えられる。

四  争点

1  本件TAEにおける、薬剤注入時のカテーテルの先端の位置はどこであったか。右の位置からの注入について、被告に過失があったといえるか。

2  本件TAEの施行と、平の死亡(胃からの大量出血)との間に相当因果関係が認められるか。

3  平の死亡による損害の額について

第三  争点に対する判断

一  争点1(本件TAE施行の際の被告の過失の有無)について

1  被告の注意義務について

被告は、平との間で診療契約を締結したのであるから、右契約に基づき、平に対し、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準にしたがって治療行為をなすべき債務を負担するものと解される。

一般にTAEないしTAIは、目的とする腫瘍の支配動脈にカテーテルを用いて塞栓物質ないし抗癌剤を注入し、当該癌細胞を壊死させる治療法であり、加えて本件TAEの際に注入された薬剤の種類は、前記第二の一の5のとおりであり、証人吉崎巌の証言(以下「証人吉崎」という。)及び同草野正一の証言(以下「証人草野」という。)によれば、右薬剤のうちマイトマイシン及びテラルビシンについては毒物として指定を受けており、したがって右薬剤は癌細胞を破壊する効果がある一方、正常組織に流入した場合にはこれをも破壊する危険があること、乙七ないし一〇、一二ないし一四号証によれば、昭和五九年ころから平成二年ころにかけて、TAEの施行後には、急性胃病変の発生があり得る(その発生頻度については後述第三の二の2の(四))こと、その原因として考えられるものは複数あるが、塞栓物質ないし抗癌剤の胃への流入が重要視されるべきであることが、複数の医学論文により報告されていたこと、乙七及び一一号証によれば、右急性胃病変は、時として致命的ないし難治性で、大量出血や穿孔の例もあり得る旨の報告もされていること、がそれぞれ認められ、以上からすれば、TAEは塞栓物質により他臓器に対する重篤な侵襲の危険もあり得る治療法であって、かつ本件TAEの施行された平成二年ころには、担当医師としては右の危険を予測し得たといえるから、TAE担当の医師としては、当該患者の血管の太さ、破格走行、屈曲の有無などの血管走行の状態、もしくは使用するカテーテルの太さ、形状及び材質などにより当該腫瘍の栄養動脈まで到達できない場合、または肝癌の多発性や転移の可能性により、広範囲に薬剤を注入する必要のある場合などの特段の事情がないかぎり、カテーテルの先端を可及的に当該腫瘍の栄養血管である肝動脈の末端まで到達させることにより塞栓物質等が胃等の消化器管へ流出することを防止し、その効果を当該部位に限局すべき注意義務を負うものというべきである。

そしてこの点を本件TAEについて検討すると、平は左胃動脈から左肝動脈が分枝する破格走行であり、本件TAE施行時点において吉崎医師はこれを認識していたこと(争いがない)、乙六、二〇号証によれば、胃に通じる右分枝は少なくとも二本あること、証人吉崎によれば、本件TAEの際に使用したカテーテルは5.0Fr(フレンチ、カテーテルの太さの単位で、三Frは約一mm)であって、特に口径の細いものを使用しており(争いがない)、右分枝より先に挿入可能な口径であったこと、乙四五号証及び証人草野によれば、平の左胃動脈の走行の状態からみて、右分枝より先にカテーテルを挿入する難易度はそれほど高くないと考えられること、平の場合、胃に通じる分枝より手前で薬剤の注入を開始した場合には、右薬剤が胃に流出する危険があること、がそれぞれ認められるのであるから、本件TAE施行に際しては、担当医師は、胃に対する薬剤の流出を防止するため、少なくともX線写真において判明している右二本の胃に通じる血管の分枝の先の地点において、薬剤の注入を開始すべき義務を負うものというべきである。

この点被告は、肝癌は多発性でありまた転移の可能性を考慮して広範囲に薬剤を注入することもあり得る旨主張する。確かに、乙一一、一二、四五号証及び証人草野によれば、薬剤流出の可能性があるという危険を冒しても肝癌の治療の利益を優先して、やや広範囲に薬剤を注入する場合のあることが認められるが、本件TAEの場合、乙六、二〇号証によれば、胃に通じる分枝はS2の腫瘍の栄養動脈とはなり得ないから、分枝より手前で薬剤を注入することが、分枝より先で薬剤を注入することと比較して、肝癌の治療上特に有効であるとは到底考えられず(右血管が肝癌への則副血行路であることを認めるに足る証拠はない。)、右主張は採用できない。

また被告は、平の場合、胃に通じる血管の分枝より先にカテーテルを挿入したとしても、ある程度の逆流は不可避である旨主張するが、乙四五号証及び証人草野によれば、一般に左肝動脈から左胃動脈が分枝する血管走行の場合には、胃に通じる血管を避けてTAEを行うのが原則であること、乙九、一四号証によれば、胃に対する薬剤の流出を防止するために、できるだけ腫瘍の栄養血管の近くまでカテーテルを進める必要のあることが指摘されていることがそれぞれ認められるから、以上からすれば、仮に、分枝より先の注入でも逸流が避けられないとしても、その量は分枝より先で注入を開始した場合に比して少量であり得ること、したがって他臓器に対する侵襲の危険も減少することが合理的に予測されるのであるから、本件TAE担当医師としては、前記のように胃に通じる分枝より先にカテーテルを挿入しない、ないし挿入できない前記特段の事情がないかぎり、やはり第一次的には胃に通じる分枝を超えた地点から薬剤を注入すべき義務を負うものというべきである。

2  本件TAEにおける薬剤注入時のカテーテルの先端の位置について

(一) 証拠(甲五、乙一、二、四、五、二三、二五、三六・証人草野、同若林、原告串畑潔本人)によれば、以下の事実が認められる。

(1) 平の場合、胃に通じる血管の分枝より手前で薬剤を注入した場合には、胃に対して薬剤が流出する可能性がある上、平の胃の病理標本について顕微鏡により精査した結果、塞栓物質らしきものが検出された。右物質は塞栓物質であるとの断定はされていないけれども、通常血管中に存在しない異物であって、更に本件TAE施行の日(平成二年七月五日)と、病理標本の作成された日時(同月二七日・いずれも争いがない)は近接しており、本件TAE後、他に動脈内に異物が混入する可能性はなかったものと考えられる(右混入を認めるに足る証拠はない。)(してみると、右物質は、本件TAE施行の際に注入された塞栓物質であると考えるのが合理的である。)。

(2) 本件TAE施行の際のX線検査報告書(血管撮影)には、平の血管走行の概念図が記載され、右図中において、左胃動脈上にイ点、固有肝動脈上にロ点が特定されているところ、右の概念図の説明として、同報告書には、「S2のmass(塊)は、IHA(固有肝動脈)及び左胃動脈よりの造影でもはっきりしなかったが、It.gastric artery(左胃動脈)よりTAI+Eを施行。S4のmassについては、上記のように、腹腔動脈からIHA(イ及びロの地点より)にカテ挿入し、上記のごとく、TAI、TAEを施行した。」との記載がある(してみると、右イ点及びロ点から本件TAEを施行した、すなわち薬剤を注入したものと解するのが合理的であり、そのうち左胃動脈上のイの地点は、明らかに胃に通じる血管の分枝前の地点である。)。

この点、証人吉崎及び同菅田は、右各地点について、いずれもカテーテルの通過点として記載したにすぎない旨証言するが、乙二号証によれば、平成二年三月一六日施行のTAIの際、S2の腫瘍については、左胃動脈から左肝動脈が分枝しているためあえて薬剤の注入をしなかった経緯があり、したがって被告病院において平の右破格走行が注目されていたものと考えられるところ、そのようなときに、担当医師がことさらに分枝前の地点にカテーテルの通過点を示すものとは考えられないこと、TAEの場合、一般的にはカテーテルの先端の位置が重要であることからすれば、検査報告書にもカテーテルの先端の位置を記すのが通常であると考えられること、乙二〇号証によれば、被告が特定した薬剤の注入部位のうち、固有肝動脈上の地点と、乙四号証のロの地点は、いずれも総肝動脈(CHA)から胃十二指腸動脈が分枝した後、中肝動脈と右肝動脈が分枝する以前に特定されており、両者は一致するものと考えられること、からすれば、イ点のみがカテーテルの通過点とは考え難い。

(3) 右のとおり、吉崎医師は自ら本件TAEのX線検査報告書には左胃動脈よりTAEを施行した旨記載しており、また同じ報告書には、菅田医師も薬剤の注入量に関して「S4」に対応して「左胃」と記載している。移植科のカルテ(乙五)にもS2の日mass(塊)については左胃動脈よりTAEを施行した旨の記載がある。

(4) 病理解剖時において若林医師は、剖検記録(乙一)に「胃に行く血管(左胃動脈?)にまちがって塞栓術を行ったという:胃壁の菲薄化(噴門部の穿孔?)、脾の梗塞はこれと関係ありや?」との記載をしているところ、右記載は病理解剖時において、被告病院移植科における平の受持医である渡辺医師の説明を記載したものであることからすれば、病理解剖時、被告病院においては、本件TAEの薬剤注入地点を誤った疑いが存在したものと考えられる。

この点、証人若林は、右記載のうち「まちがって」の部分は渡辺医師の言葉ではなく、表現が正確でなかった旨証言するが、同証人によれば、右記載は病理解剖の際に渡辺医師の説明を聞いて、その際に記載したものであることが認められるから、むしろ剖検記録の記載の信用性が高いというべきであって、右証言は採用できない。

(5) 当時の被告病院院長は、原告串畑潔に対し、平成二年一一月ないし一二月ころ、平の胃、肝臓、左胃動脈及び左肝動脈を記載した図面を示した上、本件TAEにおいては、胃に通じる血管のうち、全部の分枝を越えて薬剤を注入したか否か分からず、手前で注入した可能性がある旨を説明した。

(二) 以上からすれば、本件TAE施行の際のカテーテルの先端(薬剤の注入位置)は、胃に通じる血管の分枝前の地点であって、右地点から薬剤を注入したことにより、胃に薬剤が流出したものと推認することができる。よって、吉崎医師には、本件TAE施行の際、胃への薬剤流出を避けるため、右分枝より先の地点から薬剤を注入すべきであったにもかかわらず、これを怠った過失があると言わざるを得ず、被告の履行補助者である吉崎医師の右過失は信義則上被告の過失と同視されるべきである。

二  争点2(右過失と死亡との因果関係)について

1  証拠(乙四、五、七ないし一〇、一三、三六・証人若林)によれば、以下の事実が認められる。

(一) 平の死因は、胃から大量の出血を生じたため出血性ショックを起こし、肝の虚血による急性肝不全、更には腎不全、DIC(汎血管内凝固症候群)を合併した多臓器不全を招来したためであり、右胃からの出血の原因は①ないし③の潰瘍であって、病理解剖によっても、外に主な出血原因となる病巣は発見されず、また潰瘍の進行の程度については、深さに応じてULⅠからULⅣ及び穿孔ないし穿通に区別されるところ、大量出血については、特にULⅡないしULⅢの程度(ULⅡは粘膜下組織まで欠損した状態であり、ULⅢは筋層まで欠損した状態をいう。)である③の潰瘍が原因と考えられる。

この点被告は食道静脈瘤の破裂の可能性があると主張するが、証人若林によれば、その可能性は否定されていること、更に同人の証言によれば、食道静脈の破綻の可能性もないといえることが認められるから、被告の右主張は採用できない。

(二) 右潰瘍形成の原因については、ウイルスによる感染ではなく、何か物が詰まったことによる虚血性の変化があったことであり、抗癌剤ないし塞栓物質の流入により形成された可能性は否定できない。

この点、証人若林は、平成二年七月一一日の内視鏡検査の際には、①の潰瘍しか存在せず、②③の潰瘍は、その後に形成されたものであると証言するが、同日の移植科における胃カメラでは、噴門直下の前壁には1.5×2.0cmの潰瘍が発見されたが、その他の部位は血液で充満しており観察が不能であったこと、同月一二日の内視鏡検査によっても、胃体部は、胃角部より穹窿部下部まで凝血塊で一杯で観察できなかったこと、がそれぞれ認められるから、②③の潰瘍は存在しなかったのではなく、むしろ観察できなかったにすぎないものと考えられることから、②③の潰瘍が、①の潰瘍に誘発され、薬剤流入とは別の原因で形成されたものとは考え難く、他の形成原因を認めるに足る証拠はない。

(三) ①ないし③の潰瘍については、いずれの潰瘍も左胃動脈の支配領域であり、実際に平の胃の病理標本から切片を取り顕微鏡下で観察したところ、①ないし③の潰瘍のいずれの部分からも前記のとおり塞栓物質が検出された。特に③の潰瘍の部分から採取した切片については一枚を除いて全ての切片から塞栓物質が検出されている。

(四) 平成二年七月九日のカルテには、TAEによる胃の障害の可能性を疑っている記載がある。

(五) 医学論文等において、TAE後の消化管合併症の原因の一つとして、塞栓物質の胃支配動脈への逆流による末梢動脈の閉塞に伴う虚血性変化が挙げられ、しかも右逆流による病変の発生は、各論文において重要視すべき原因とされている。また、TAE術中に胃や十二指腸に分布する血管に塞栓物質が流入した症例に、有意に高率に虚血性の胃十二指腸病変が認められたとの報告もある。

以上からすれば、平は、本件TAEによる塞栓物質が左胃動脈に流出してこれを塞栓したことにより、胃壁に虚血性の変化をもたらして右動脈の支配領域である①ないし③の部分に潰瘍を形成し、右潰瘍のうち特に③の潰瘍の部分の動脈に破綻を生じたことから大量に出血し、急性肝不全、腎不全更には多臓器不全の状態に陥って死亡したものと推認するのが相当である。

2(一)  この点、被告は、平に消化管からの出血を疑わせる病変があったのは、術後四ないし五日も経過した平成二年七月九日であって、本件TAEによる薬剤流出が原因と考えるには不自然であると主張するが、乙七号証によれば、術後六日目及び一〇日目、乙一三号証によれば、術後四日目及び六日目の消化管病変の発生も報告されていることからみて、術後五日目に消化管病変が発生したとしてもなお因果関係は否定されないというべきである。

(二)  次に、被告は胃壁に至る動脈枝は、左胃動脈以外の動脈とも吻合しており、複数の血管支配を受けているから、仮に左胃動脈が塞栓されたとしても、潰瘍の発生原因たり得ないと主張するが、乙八号証によれば、「従来、胃および十二指腸は栄養動脈が豊富で則副血行路が発達しているため虚血による病変は起こりにくいとされてきた。しかしながら、上部消化管出血の治療として行われる胃および十二指腸の動脈塞栓術の合併症として胃十二指腸の壊死や梗塞も報告されており、塞栓物質の流入は胃十二指腸粘膜病変の原因になり得ると思われる。」旨の報告もされていることから、これまた因果関係は否定されないというべきである。

(三)  第三に、被告は胃壁擁護措置として潰瘍防止剤(ガスター)を用いているから問題はないと主張し、証人吉崎もこれに沿う証言をする。しかしながら、証人吉崎によれば、ガスターはH2―ブロッカーという潰瘍防止剤の一種であるところ、乙七、八、一〇及び一一号証によれば、医学論文において、H2―ブロッカーの使用によっても、胃病変発生の予防効果は期待できない、ないしその予防は不可能ともされていることからすれば、本件においても、H2―ブロッカーの使用による胃壁擁護効果はにわかに認め難い。

(四)  第四に、被告は、TAEによる消化管病変の発生率は低く、重篤な合併症はないと報告されていると主張し、乙一三号証にはこれに沿う記載がある。しかしながら、乙七ないし一二号証に挙げられている消化管病変の発生頻度は、いずれも必ずしも低い値とはいえない(乙七は6.5から73パーセント、乙八は三七パーセント、乙九は一一パーセント、乙一〇は38.4パーセント(内胃十二指腸潰瘍は一二パーセント)、乙一一は五四パーセント(内胃潰瘍は二七パーセント)、乙一二は3.2から10.9パーセント)上、乙七及び一一号証によれば、TAEに伴う胃十二指腸潰瘍は、時に致命的ないし難治性で、大量出血や穿孔の例も報告されていること、乙一五号証によれば、塞栓物質にリピオドールを用いた場合には、重篤な合併症が報告されているとしていること、乙七、一〇及び一三号証によれば、複数回後のTAEで、かつ過去のTAEで効果が少なかったため薬剤の量を増加して行うTAEの場合に有意に胃十二指腸病変の発生率が高いことが報告されているところ、本件TAEは三回目で、証人吉崎によれば、二回目(平成二年四月六日)と同じ量、同じ条件下では再発の危険があることを考えて、今回で癌細胞を根絶しようとしており、S2の腫瘍に対しては、前回使用されておらず、かつ毒物指定されているマイトマイシン一〇mgとテラルビシン二〇mgを併用して各三分の一を使用している(争いがない)ことがそれぞれ認められるのであって、以上からすれば、なお被告の右主張を採用することはできない。

(五)  第五に、被告は、肝硬変の患者には消化管の潰瘍、びらんを生じる割合が高い上、TAE施行の際のストレスにより、胃病変発生の確率が高まると主張し、乙四五号証及び証人草野によれば、進行した肝硬変の患者の場合、もともと胃のびらんと潰瘍の合併頻度が高く(二〇ないし三〇パーセント)、また、TAE施行自体によるストレスによって消化管出血を併発することがあると指摘する。しかしながら、証人草野によれば、肝硬変が直接にびらんないし潰瘍の原因になるというわけではなく、なりやすい状態があるという程度であること、右パーセンテージはびらん(進行の程度がULⅠまでのものをいう。)及び潰瘍を含む数値である上、出血性の潰瘍を伴う確率は更に低下すること、証人草野はICG(インド・サイアニン・グリーン)の一五分値と病理解剖の結果から平の肝の予備能は低下していたと証言するが、他方乙四号証によれば、平の平成二年六月二二日の血中ビルビリン値(1.4)、同日のアルブミン値(4.0、証人草野によれば、いずれの値も肝硬変の進行度をみるメルクマールとして使用される。)はいずれも正常の範囲内であって平の肝硬変がどの程度進行していたかについてはこれをにわかに確定しがたいこと、また、乙七号証によれば、TAE施行の際のストレスによる胃病変の発生については否定的に解する報告も存在すること、加えて平については、平成二年三月一六日のTAI及び同年四月六日のTAEの後も潰瘍性の出血は確認されておらず、また本件TAEの際に平にいかなるストレスが加わったのかを認めるに足る証拠はないこと、からすれば、肝硬変についても、ストレスについても、平の潰瘍形成の主たる原因とは認め難い。

3  以上からすれば、被告は、本件TAEの施行に際し診療契約上の義務を怠り、平の左胃動脈から左肝動脈が分枝する前の地点より塞栓物質を注入したことにより、右薬剤を左胃動脈に流入させてこれを閉塞し、これにより胃壁に虚血性の急性病変(出血性の胃潰瘍)を引き起こして同所からの大量出血を招き、平を死に至らしめたものであるから、平の死亡により生じた損害を賠償する責任があるものと言わなければならない。

三  争点3(損害)について

1  死亡による逸失利益について

(一) 平の余命について

平の余命については、本件TAEにおいて、胃に対する薬剤の流出がなかったと仮定した場合に、同人がどの程度の期間生存する蓋然性があるかという観点から検討されるべきである。

この点、乙四二号証によれば、TAE施行後の患者の累積生存率について、腫瘍結節数と血清AFP(アルファ・フォトプロティン)値に着目した分析をしたところ、腫瘍結節数一個の場合については、三年累積生存率は約三〇パーセント、五年は約一五パーセント及び血清AFP値が〇から二〇ng/mlの場合では三年は約三五パーセント、五年は約二〇パーセントであったこと、乙一及び四号証によれば、平の病理解剖時に確認された腫瘍は八×一三mmのもの一個であって、かつ本件TAE直近のAFP値は12.2ng/ml(平成二年六月二二日及び同年七月六日)であったこと、乙四三号証によれば、TAE施行後の患者の累積生存率については、一年が73.4パーセント、二年が53.4パーセント、三年が37.0パーセント、四年が30.3パーセント及び五年が26.5パーセントとされていることがそれぞれ認められ、以上の統計結果及び以上の統計が年齢、性別及び肝癌の数、大きさ、進行の度合等に関して必ずしも平と同じ条件の患者のみのものではないことをも考慮して、平の場合には四年間生存する蓋然性は高いと認めることができる。

確かに、乙一五号証によれば、TAE施行後の四年累積生存率については一〇パーセントとされており、また乙四一号証(なお、乙四二号証は、乙四一号証の続報である。)によっても、五年の累積生存率は8.3パーセントとされている(三年は20.7パーセント。四年についての統計はない。)のではあるが、証人草野にれば、前者の統計は一九七七年から一九八八年のものであり、本件TAE当時の治療水準からして、より高率の結果が出る可能性があること、後者の統計については、肝細胞癌の切除症例については腫瘍の大きさ、個数による分析をして有意な差異を認めているのに対し、TAEの場合には右のような背景因子別の分析をしておらず、この点については却って続報である乙四二号証の統計に信用性があることからすれば、なお前記結論に影響を与えないというべきである。

(二) 平の年収について

甲三及び四号証によれば、平の昭和六三年度の年収額は七九四万九一二〇円、平成元年度の年収額は八一二万一三七二円であることが認められるから、六〇歳までのおよそ二年間の平の年収額は、少なくとも各八〇〇万円と認めるのが相当である。しかしながら、乙一号証によれば、病理解剖の結果によっても平の肝臓にはなお八×一三mmの癌細胞(S4の領域)が発見されたこと、平は進行の度合は確定し難いものの肝硬変を患っており(争いがない)、併せて今後相当期間の治療継続が予想されること、からすれば、通例定年退職の年齢である六〇歳以後については、現在と同程度の収入を得られる蓋然性に乏しいと言わざるを得ないから、現在の年収額に五〇パーセントを乗じた額とするのが相当である。したがって、六〇歳からおよそ二年間の年収額は各四〇〇万円と認めることができる。

(三) 以上から、平の死亡当時の年齢五七歳(但し、一月後には五八歳となる。)から六一歳までのおよそ四年間について、死亡による逸失利益を、生活費控除割合を三〇パーセントとした上ライプニッツ係数を用いて中間利息を控除して算出すると、次の計算式のとおり一五一三万四八四〇円となる。

8,000,000×(1−0.3)×1.8594+

4,000,000×(1−0.3)×(3.5459−1.8594)=15,134,840

2  慰謝料について

平の年齢、家族構成(妻といずれも成人の原告ら)、社会的地位、死亡当時の病状、余命及び本判決が認定した死亡に至る経緯をも考慮すれば、平の死亡による慰謝料は、一五〇〇万円とするのが相当である。

3  相続について

以上1及び2の平に発生した損害合計額三〇一三万四八四〇円について、原告らはそれぞれ法定相続分に従って相続したから、妻である原告串畑敏子は被告に対してその二分の一である一五〇六万七四二〇円を、子であるその余の原告らは被告に対してそれぞれその六分の一である五〇二万二四七三円を、損害賠償として請求し得る。

4  弁護士費用について

弁論の全趣旨によれば、原告らは、本件訴訟の提起及び遂行を原告ら訴訟代理人に委任し、相当額の費用及び報酬を支払うことを約したことが認められるところ、本件訴訟の内容、経過、認容額等諸般の事情を考慮するならば、本件と相当因果関係のある弁護士費用としては、原告串畑敏子について一五〇万六〇〇〇円、その余の原告らについてそれぞれ五〇万二〇〇〇円が相当である。

四  結論

以上からすれば、原告らの請求は、原告串畑敏子については一六五七万三四二〇円の支払、並びにその余の原告らについては五五二万四四七三円の支払及びこれらに対する平死亡の翌日である平成二年七月二八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があるので認容し、その余の請求は理由がないのでいずれも棄却することとし、また訴訟費用の負担については民訴法八九条、九二条を、仮執行の宣言については同法一九六条一項をそれぞれ適用し、被告の申立にかかる仮執行免脱宣言については、相当でないから付さないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官佐藤康 裁判官稻葉重子 裁判官竹内努)

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